莱芜历史沿革
作者:Master发布时间:2007-08-23分类:历史浏览:119评论:0
莱芜历史沿革:莱芜,春秋为牟国及齐嬴邑、平州邑地。牟国属于鲁国的附庸国,故址在城东10千米的辛庄镇赵家泉村;嬴邑属于齐国,故址在城西北羊里镇城子县村;平州邑在莱芜西部。
秦置嬴县(治所在城子县村),属济北郡。
西汉增置牟县(治所在赵家泉村),又于牟县东北置莱芜县,因治所设在淄水流域的莱芜谷(旧说昔齐灵公灭莱,莱人播流此谷,邑落芜没,故曰莱芜),故名莱芜,故址在淄川东南21.5千米的口头乡城子庄。嬴、牟、莱芜三县同属于泰山郡。北魏时嬴县治所向东迁移至南文字村。同时撤销设在淄川的莱芜县,其区域北部划入设在淄川的贝丘县,南部分别划入嬴县与牟县。
北齐天保七年(556年),撤销牟县,并入博平县。
隋代开皇十六年(596年),复置牟城县,大业(605-618)初年又并入嬴县。唐贞观元年(627年)撤销嬴县,并入博平县。
唐长安四年(704年),于北魏嬴县故城(南文字村)复置莱芜县。从此,莱芜县治所开始设在莱芜市境内。
元和十五年(820年)又将莱芜县并入乾封县,太和元年(827年)复置莱芜县,治所仍在南文字村,属兖州鲁郡。宋初属兖州鲁郡,继属袭庆府鲁郡。
金代,废除设在莱城的主管冶炼的莱芜监,于大定十二年(1172年)将设在南文字村的莱芜县南迁至莱芜监旧址,属泰安州。
清代属泰安州。
民国四年(1915年)属济南道。民国十四年(1925年)属泰安道。民国十七年(1928年)直属山东省。民国三十年(1941年),抗日民主政权将莱芜与博山、沂源、新泰的少部分地区合并划为莱芜、莱东、莱南三县,抗战胜利后恢复原貌。
1983年8月,经国务院批准,撤销莱芜县,改设省辖县级市,由泰安市代管。1990年将新泰市的寨子乡、沂源县的黄庄镇划归莱芜市管辖。1992年11月,经国务院批准,莱芜市由县级市升为地级市,辖莱城、钢城两个区,30个乡镇、办事处。
- 上一篇:【莱屋民俗】芜喝酒风俗习惯介绍
- 下一篇:【莱芜民俗】莱芜民风民俗
相关推荐
你 发表评论:
欢迎- 历史排行
- 文章归档
-
- 2022年1月 (2)
- 2021年12月 (1)
- 2021年11月 (1)
- 2021年6月 (1)
- 2021年1月 (1)
- 2020年12月 (2)
- 2020年8月 (1)
- 2020年6月 (1)
- 2020年5月 (1)
- 2020年3月 (1)
- 2019年5月 (3)
- 2019年3月 (1)
- 2018年9月 (1)
- 2018年2月 (1)
- 2018年1月 (1)
- 2017年12月 (1)
- 2016年11月 (1)
- 2015年12月 (1)
- 2013年12月 (1)
- 2012年9月 (1)
- 2009年12月 (2)
- 2008年9月 (1)
- 2008年6月 (2)
- 2008年4月 (1)
- 2008年3月 (1)
- 2008年2月 (1)
- 2008年1月 (1)
- 2007年11月 (1)
- 2007年10月 (2)
- 2007年9月 (1)
- 2007年8月 (2)
- 2007年6月 (1)
- 2007年5月 (2)
- 2007年3月 (1)
- 2007年2月 (1)
- 2007年1月 (1)
- 2006年12月 (3)
- 2006年10月 (1)
- 2006年9月 (1)
- 2006年8月 (1)
- 2006年7月 (1)
- 2006年6月 (1)
- 2006年5月 (1)
- 2006年3月 (1)
- 2006年2月 (2)
- 2006年1月 (1)
- 2005年12月 (2)
- 2005年10月 (1)
- 2005年9月 (2)
- 2005年7月 (1)
- 2005年6月 (1)
- 2005年5月 (1)
- 2005年4月 (1)
- 2005年1月 (1)
- 2004年10月 (1)
- 2004年9月 (1)
- 2004年8月 (1)
- 2004年7月 (2)
- 2004年6月 (2)
- 2004年5月 (1)
- 2004年3月 (1)
- 2004年2月 (1)
- 2004年1月 (1)
- 2003年12月 (1)
- 2003年11月 (1)
- 2003年10月 (1)
- 1970年1月 (1)
- 最近发表
- 控制面板